2019/01/06

12/15のこと

母の不在が悲しくてどうしようもなくて
誰かに手をにぎってほしい、と思う。
そして、それは母の入院中の気持ちだったのかもしれない
と思う。
心細くて苦しくて、喉がかわいてお腹がすいて
そして死がこわい。
母は気づくとよくベッドの柵をぎゅっと握っていた。
自分をつなぎとめるように。

祖母と近くのホテルに泊まることになった。
本当は叔父も泊まってほしかったけれど
それはできない、と言われたので
一度祖母をホテルへ送り、また戻って父に仮眠をとってもらう。
消灯前に交代してホテルへ帰り、早朝病院へ向かう。
何かあってもタクシーで5分。
いろんな負担と不安を考えて出したプラン。

ちょうど祖母とホテルにいた時
なべさんから電話がかかってきた。
母の入院で出る予定だったイベントを急遽欠席する事になったので
なべさんのカレンダーの取り扱いをキャンセルする連絡をしていた。
久しぶりに聞く家族でも病院関係でもない声。
違う風が吹いてきたようだった。
母の事を聞かれ
泣きそうになった。
なべさんでよかった。
たまにいつものようにおちゃらけながら
でも、ちゃんと聞いてくれる。
どこか救われた。

祖母を慣れないホテルに置いていくのも気がひけたけれど
いろいろ説明して
自分も久しぶりのシャワーをあびて病院へ戻った。
ちょうど来ていた茅ヶ崎の叔父に
祖母のホテルへ様子を見に行ってもらった。

夜勤の看護師さんに変わっていて
てきぱきと母の面倒を見てくれた。
消灯前に、丁寧に顔をふき、ベッドをなおし
歯磨きをし、点滴などをチェックした。
母を患者ではなくきちんと人として扱ってくれていた。

たまに咳が出ると、看護師さんが痰をとりますか?
と母の聞く。
たいてい、いいと断るけれど
たまにほんの少しだけ、と手のジェスチャーで伝えていた。
ほんの少しだけでいいから、
と。
痰をとるチューブが気管の奥の方まで行くのか
とても苦しそうだった。
何もしてあげられなくて
手をさすったり足をさすったりしていた。
母の体はとても細くなっていた。
消灯後、父と交代した。

12/15のこと

朝が来て、母は
意識もなくならずちゃんと生きていた。
父と妹が来て
一度病室を出て、控え室へ行った。
眠気が限界で父と交代して眠った。
起きて病室へ向かい、母も少し安定しているようだし
かえろうかなと父に伝えると、
どうやら、酸素レベルが一段階あがったらしい。
次あがるともう意識はなくなるらしいけど
どうする?
と聞かれた。
そんな言い方をされたら、帰れない。
ずっと帰ってなくていろいろ限界
(洗濯機に洗濯ものは入ったままだし、
着替えてないし、お風呂も歯磨きもしていない、
でも母だって同じだ)だけど
帰ってる間になにかあっても困る。
微妙に遠い。
とりあえず残ることにした。
看護師さんはまた新しい人になっていた。
また前日と違う雰囲気。
母がノートにひとこと
ざつ
と雑に書いた。
不満そうだった。
本当にね!と顔をしかめてうなずいて見せた。

落ち着いたから、なのか母の水要求が増したようだった。
もう看護師さんに頼まず
言われたらこちらであげていた。
水の時は右頬をつんつんと叩くという約束がいつのまにかできた。
相変わらず熱いようで、何回も氷水でタオルをしぼって頭にあてた。

午後、母がノートに
友人二人に今の状況を伝えてほしい
と書いた。
母の携帯からメールを送った。
母が会う約束をしていた友人はその日の夕方にかけつけてくれた。
母は嬉しそうに友人の話すおしゃべりを聞いていた。
たまにノートに何か書こうをしていたけれど
気力がわかないのかやめてしまい、
少しうとうととする時もあった。
母の体力が落ちてきていた。
ノートを見ると
手術の順番がまだこない
と昨日よりも力のない文字で書かれていた。
意識が朦朧としているのか
今の状況がわからなくなるようで
何回も手術はいつかと聞かれるようになった。
聞かれるたびに、
手術はもうなくて今が肺炎をなおす薬を点滴しているんだよ
と看護師さんと一緒に伝えると
とても安心した表情になった。
苦しい夢でも見るのだろうか。
そして起きると人工呼吸器をつけているから、
怖い事がまだ起こっている、と思うのだろうか。

うとうととしているのに、ふと手があがり
びっくりしたように起きる時もあった。
どうしたの?何かあった?
と聞くと、首をふった。
あの時みた夢の話を聞きたかった。

いつも熱いから、と手をにぎるのを嫌がるのに
痰をとる時は私の手を握った。
ものすごくいやで苦痛である事が
にぎった手から伝わってきた。

12/14のこと

お葬式も終わって正月も終わって
日常が始まって
今更、なのか、それとも一度みんなに来る波なのか
二つ目の実感が悲しさと空虚さとなって
やってくる。
日常のふとした瞬間に、
母の事を思って
ああ、お母さんはいないんだ
と、
もう話したいことも
食べてもらいたいものも
見てもらいたいものも
伝えられない
声も姿も
もう
どこにもない
と実感して、どうしようもなく
かなしくなる。
もうどうしようもないとわかっていても
どうしようもなく悲しくなる。


お昼頃、やっと祖母とおじさんが到着した。
病院についたおばあちゃんは泣きそうで
まだお母さんは生きているよ!
と伝えると
よかった
と少し泣いた。

母はとても嬉しそうだった。
祖母とおじさんの手を握り、
おじさんの手が冷たくて気持ちいいと
全て顔で伝えた。
ずっと笑っていた。
本当に本当に嬉しそうに笑った。
そして、何度もごめん
と、ノートに書いた。

夕方になり、
母が
誰か残るの?
とノートに心細そうな顔で書いた。
私もお父さんも麻美もおばあちゃんも残るよ!
と元気に伝えた。
ICUで母に話かける時
無意識に声が大きく、元気になった。
小さな子供の話しかけるような
そんな話し方になった。
なんでだろう。
母は、ひとりで病院にいるのが
もういやみたいだった。

今、思い出してみると
3.11の時に怖がる私に
家に帰ってきなさい、家族みんなでいれば大丈夫だから
と言ったのは母だった。
家族みんなでいれば大丈夫
なんてことは、何もないけれど
確かに家族みんなでいれば、大丈夫になる気がした。
何より、安心だった。
家族は、居場所だった。
きっと、母にとっても。

夜、母の呼吸はまた苦しそうになった。
何度も夜勤の看護師さんに水をお願いした。
水といっても、脱脂綿に水を含ませて口の中をしめらす程度。
でも、ずっと口があいていてすぐに口の中が乾くのか
何度もお願いし、舌で脱脂綿のわずかな水をしぼっていた。
看護師さんが、気を利かせて凍った脱脂綿を持ってきてくれた。
母は気持ち良さそうに凍った脱脂綿を味わっていた。
何度も呼んだのに、看護師さんは嫌な顔ひとつせず
ずっと母の気持ちの寄り添って話してくれていた。
氷水をもらい、何度もタオルを冷やしておでこに乗せた。

祖母に早めに休んでもらうために
早めの仮眠をとり、父と妹と交代すると
二人とも寝不足と疲れで夜明けまで起きてこなかった。
夜中ずっと母といた。
ふとこれまでの事を思い出して
涙が止まらなくなった。
薄暗い中、静かに泣いた。
母は気づいているのかいないのか
私の事をずっと見つめていた。
声をかけてほしい。と思ったし
気づかないでほしい、とも思った。
夜明け、先生が入ってきて
機械をいじった。
あとから、酸素濃度をあげていたと聞いた。
母はゆっくりと自由になろうとしていた。

2018/12/26

12/14のこと

ICUの家族控え室でじっと待つ。
どれくらい待ったのか覚えていない。
何をしていたかも覚えていない。

この病院へ来てからろくなことがない
と、無意味な事を
父が愚痴っていた気がする。
それを、寝たふりをして流していた。

やっとICUへ案内された。
前回の手術のあとの入り口ではなく
個室です
とさらに奥の部屋に案内された。
手前の小さな四角い部屋で、先生から
状況の説明を受けた。

肺炎のすすむスピードが早く
このままでは数時間で意識がなくなるかもしれません。
今は自発呼吸を助けるような呼吸器の使い方を
していますが、
自発呼吸ができなくなれば、全て自動で管理するシステムになります。
自動管理になると、肺を無理に動かすことになるので
肺や脳、心臓にも負担がかかりやがて機能しなくなります。
、というようなこと。
父はノートにぐしゃぐしゃな文字でメモをとるのに必死で
質問をするのは私だった。
肺炎がよくなったら、呼吸器は外せるのか
自動管理になるということは、延命ということですか。
あと数時間ということは、ほかの親戚に来てもらうとしたら
今日の昼頃まで、ということですか

延命はしない、というのが母の希望だったから
自発呼吸しなくなった時点で母は死亡となる。

親戚に連絡をとる前に
母の病室へ向かった。
たくさんの点滴に囲まれた母がいた。
一番苦しくない態勢をとり、口には酸素を送り込む管が入っていた。
とりあえず、さっきみたいな苦しさはなさそうだった。
なんて声をかけたのか覚えていない。
状況を把握するのに必死だった。
父を病室へ残し、妹と母の親戚へ連絡をした。
あと、何時間母は意識を保っていられるのだろう。

妹が到着し、家族3人揃った時
母が初めて嬉しそうな顔になった。
妹と私、父の頭をなで、3人をぎゅっとした。
声は出なかった。咳さえも無音だった。
ただ、表情だけで母は伝えてきた。
母はもう死ぬかもしれない、と思ったのだ。
いろいろ話しかける父に、母は何かを指でかいた。
ねむい
ずっと眠れなかった母はやっと苦しくなく眠ることができる。
眠る母を見て、父に寝ておいでよ
と声をかけた。

父がいない間、看護師さんが
おかあさん、最後まで人工呼吸器をつけるのをいやがっていたんですよ。
家族と最後までコミュニケーションとりたかったんだと思います。
だから、先生もその意思を尊重して、意識がなるべくはっきりするように
麻酔を調整してくれているんです。
と教えてくれた。
あのとき合意したのに、母はやっぱり嫌だったんだ。
苦しいのに抵抗したんだ。
早く、みんな来て!と願った


12/13深夜と12/14の早朝

病院はもう消灯の時間で暗くて静かだった。

母のいる経過観察室へ行くと
頭に氷嚢をのせマスクをつけて苦しそうに呼吸する母がいた。
酸素濃度は70後半だった。
帰ってからこんなに状態が悪くなるなんて。
肺炎のせいで熱があるらしく
暑いというので
もうひとつ氷嚢をもらい頭と脇にあてた。

できることはそれくらい。
たまに態勢を変えたがる母の手伝いをすることと
氷嚢を変える。
酸素濃度を見て、呼吸が早くなりすぎる母に声をかける。
看護師さんは基本的に何もしない。
ICUの看護師さんが至れり尽くせり状態だったため
やや素っ気ない印象すら受ける。
解熱剤も、何もない。

母はずっとダッシュで走っている人のような呼吸をしていた。
ひとつだけの肺で、
ステントが入っているためになかなか入っていかない空気を
肺炎になった肺に送りこむのに必死だった。

深夜になり、私と父で交代で仮眠をとった。
母は眠れるわけもなく
ただ苦しい呼吸を続ける。
明け方、喉がかわいたしお腹がすいた、と必死な声で言った。
そりゃあそうだ。
夕ご飯も食べていないらしく
ずっと口をあけて呼吸している。
水をあげたいと思ったけれど
水ととると酸素濃度が低下するからだめだと言われた。
でも、体力がどんどん限界に達してる母に必要なのは
水分な気がした。

ナースステーションへ言って、先生に直談判し
少しづつならいいですよ
と慎重に言われた。

コンビニは走り、母が飲みたいと言ったりんごジュースと
ウィダーインゼリーを買って戻った。
先生についていてもらい、
苦しい呼吸の合間に、りんごジュースを少しづつあげた。
ゼリーは誤飲を防ぐため慎重にあげたら
少ししかあげられなかった。
もっと飲みたいという母を先生がなだめた。
母の顔がより苦しそうになった。

先生が私と父をカーテンの外へ呼び出した。

このままではよくなる可能性が低く
体力の限界もあるので
人工呼吸器をつけるか、このままいくかになるかと思います。
どうされますか。
人工呼吸器をつけると、呼吸は楽になりますが
意識レベルを低くする麻酔のような薬を点滴するので
反応は鈍くなります。会話もできません。
肺と心臓、脳にも負担がかかります。

こんなに呼吸が苦しかったら
手術をした意味がない。
朦朧とした母を見るのもつらい。
管につながれる母。

人工呼吸器でいいよな

と父が言った。
それ以外に選択肢はなかった。

うなずいた。
何かが死んでいくような気がした。

母に話すと、母は意外にも
もういい!つける!苦しい!
と呼吸器を受け入れた。
それくらい、限界だった。

最後だから、どうしてもりんごジュースを全部飲んでもらいたい
とわがままを言って、りんごジュースをあげた。
母は必死に飲んだ。
呼吸器をつけたら、もう、飲んだり、食べたり、できない。
母と、ソイラテを飲みブラウニーを食べた、あの何日か前みたいな
時間は、もうこない。
おしゃべりも、できない。
くだらない、お通じの話をして笑うこともできない。

ICUへ移動するので一度出てください、と言われてカーテンの外へ出た。
新宿のビルの窓に朝焼けがきれいにうつっていた。
嘘みたいな朝だった。
朝だよ、おかあさん。
母には、この朝焼けが見えただろうか

母の限界と人工呼吸器の悲しさでぼろぼろと涙がでた。
死んだわけでもないのに、
人としての母がひとつ崩れたような気がした。

12/13のこと

バイト後、病院へ向かうと母の友達が来ていた。
母はなぜかベッドの柵をしっかりとつかみ
それでも楽しそうな顔をしていたので
一旦エレベーターホールにある待合室へ。

行くと、父がぐったりした顔でいて
「お母さん、肺炎になってるって」
となんでこう次からつぎへ起こるんだ
と、愚痴り始めた。

いまさら、すぎる。
今年に入って、普段風邪をひかない母が
風邪をひくようになった。
そのうち、咳が止まらなくなった。
咳が止まらない。っていうのは
嫌な予感しかない。
体力を抗がん剤が奪い
急速に母の免疫が落ちている。
気がついたら、母はすっかり痩せていた。
何ヶ月か前に気がつき
言ったら変に気にするだろうと
黙っていた。
抗がん剤が変わったから、むくみがとれたね。
と、いい方の事を言った。
ちゃんと、転がり始める方へ向かっていた。
癌体験の本を読んでいれば
ここからが正念場なんだって事ぐらい
わかる。それなのに、この人は何を参っているんだ。

いらっとした。
覚悟をしておけ。と言っていた人が
一番覚悟ができていない。
母の最後を家で看取りたいと言っておきながら
もうすでに泣き言を言っている。
だから、母は病院で最後をむかえたいと言ってるんだ。
腹がたった。

もし、あの呼吸困難の時に家にいたら
手術を受ける前に窒息して死んでいたかもしれない。
定期検診で入院してこの病院でステントが入れられるって
教えてもらえて、本当にラッキーなんだから
こんなところで弱音はいてどうするの、
今、いなかったかもしれないんだよ

そんな事を言った気がする。

ちょうど、母の友達が帰ったので病室へ向かうと
母が苦しそうに呼吸をしていた。
友達からお見舞いと、レッグウォーマーをもらっていた。
母はずっと酸素濃度を示す小さな機器を見ながら
呼吸をしていた。
80以上いかないといけないらしい。
だから、一生懸命呼吸をしないといけない。
何を話しても上の空のようだった。

19時頃にもう帰っていいよ
と言われ、家に帰った。

親戚から電話がくるからと言われていたので
家の電話を気にしていた。
久しぶりにごはんを作ろうとし始めたとたん
電話がなった。

親戚のおじさんではなく、父だった。

母の酸素濃度が落ちているから病院へ行くけど、くるか?
と聞かれた。
洗濯機を回し始めたばかりだけれど
まぁいいかと思った。
また洗えばいいや。

帰ってきたばかりなのに、また病院へ戻った。
手術前の必死に呼吸する母の顔が浮かんだ。

12/12のこと

早めにICU へ行くと、12 階へ移動できるという。
よかったね!と声をかけると
母はなんだか元気がなくて、
「退院できないかもしれない」
とつぶやいた。
その可能性は否定できない。
でも、退院したいかどうか、外へ出たいかどうか
は大切だから
「ここは退院して、せめて赤十字へ戻ろうよ。
外の空気も吸いたいでしょ!」
というと、
そうだね、外の空気が吸いたいな〜
と少し笑ってくれた。
気をとりなおして、というか
気合を入れてとかそんな感じだった。
思ったより、ステントを入れたあとの呼吸がうまくいかなかったのかもしれない。

ICUの看護師さんが、作ってくれた結婚記念日のカードを
嬉しそうに見せてくれた。

12階で待っていたものの、時間切れで次の予定へ。